27. September 2019
(写真:利賀山房 TOHPより) 舞踊家が再び舞台に立つという覚悟はいったいどのようなものなのだろうか。音楽は、、やはり様々な面で甘いのかも知れない。例えば、練習で音やリズムを間違えた時、時々演奏家は笑ったりするのだ。しかも作曲者を目の前にして。もし舞踊の現場で、稽古だとしても間違えたら、大怪我をして二度と踊れなくなる可能性もある。こんな当然のことも、音楽のみの現場では気付けないのだ。 作曲前に何度か通ったNoismさん本拠地では、できる限り長い時間、日常の稽古を見学させてもらった。日々、金森さんが何を感じ、何が気になり、どのように音を聴いているのか。そして金森さんにとっての美とは何かを感じたかった。見学中終始、私がメモをとっているのに気づいた金森さんは「何を書いてるの?」と尋ねた。  音に関しての私の印象は、金森さ んも井関さんも本当によく音を聴き込んでいること。埃のちらつく音まで聴いて覚えているかのようだった。しかも耳だけではなく、全身の神経と筋肉で(何を言っているか自分でもよくわからないが)音を体感しているようだった。しかもそのレベルは極めて洗練されていた。(続く)
27. September 2019
(写真:NoismさんHPより) さて、その金森さんとの初の仕事が「利賀での世界初演作品」。鈴木忠志さんからのオーダーだった。2年ほど前から準備を始め、程なくして金森さんから3つのキーワードが届き(still/speed/silence)、そのまま作品のタイトルになった。私はこのキーワードを手がかりに作曲をすることになったのだが、それでは足りず、なるべく早く金森作品を生でみたいと思ったので、新潟市のNoismさん本拠地に通い始めた。その当時、とある新作の振付が始まったばかりというタイミングで、実に静かな雰囲気の現場だった。なるほど、舞踊の現場は音楽と異なり、静かなのだ。音楽家の現場は、各自の楽器や声の準備でワサワサとしている。音楽を始める前の高揚感もある。楽譜の準備、また楽器や声の調整が行われるので、落ち着かない空間で、空気は常に動いている。Noismさんの現場は全く違っていた。舞踊家の皆さんは、各自の身体に耳を澄ませ、集中を高めているようだった。 この時期から、2年後の私たちの新作を目指して、金森さん自身が再び舞台に立つ、という意思を聞いていた。(続く)

27. August 2019
第9回シアターオリンピックス(日露共同開催、以下TO)が華やかに開幕。東京會舘での開幕式に引き続き、黒部、利賀での公演が始まった。思えば初めての利賀は、1995年冬、3mくらいの積雪の年。完全に車酔いしてたどり着いた。そこで、所在不明になっていた高校時代の親友がク・ナウカの制作をやっていたことが判り、若き日の宮城聰さん、平田オリザさん、安田雅弘さん他と知り合った。それからなんと24年が過ぎようとしている。私は人生を「どの曲を書いていたか」で記憶している。1995年と言えばベルギーのアンサンブルictusと密に仕事をしていて、本拠地は世界屈指のダンスカンパニーROSASと同じ敷地内だった。そのレベルの高さに目を見張った。街はダンサーや音楽家で溢れ、著名な演奏家や指揮者とすれ違う毎日。この頃から様々なダンサーとの仕事が始まった。今回、TOでは、Noismの金森穣さんとの創作の機会を、TO芸術監督の鈴木忠志さんよりご提案頂いた。金森さんには14年前に鈴木さんのお宅ですれ違う時にサラッとご紹介頂いたきり、互いを知り合うことも無く12年が過ぎ、また鈴木さんによって再会したというご縁である。(続)
27. June 2019
9月後半に発表する約1時間の新曲の録音が終わった。今回共に作品を創る振付・演出の方にお渡しする期限が迫りミキシングを急いでいる。 一昨年の暮れ頃から作曲に取り組み、今年に入って主催者の方から「とんでもないものを期待しています」と激励され、既に書き溜めたスケッチを見直しながら悩んだ。演奏家の多くに常に「とんでもない曲」と言われているのだが、今回は相方が舞踊振付家。どういう呼吸で、どういう空気の中で創るのか、何を美と感じ、どこへ向かおうとしているのか。舞踊を感じるとはどういうことなのか。本拠地(新潟)に何度か通った。これまでご一緒した舞踊家とは全く異なる個性の存在として揺れ動き、私の内で何かがスパークしていった1年半だった。 新曲の締め切りは「とんでもなく」早く過ぎたにも関わらず、演奏録音を承諾して下さった音楽家は皆よく準備して下さり、約1週間かけて録音を終えた。この音源を軸に、舞台ではライヴ演奏が加わる。 去る録音セッション中に、我々音楽家たちの脳裏には、何かしらの身体の動きがイメージされていた。これから創造される舞踊が、我々のそれとは「とんでもなく」違うことを期待している。

21. December 2018
東京、とはよく言ったもので、北の京から見ると正にFar East。奄美・沖縄地域の離島調査3年目にして、日本が離島だということを痛感している。香港、台湾は10回ほど訪問しているが、中国本土は念願の初訪問。しかし残念ながら激務につき観光はゼロ。丸5日間、北京料理が毎食でこれが美味だった。日本の中華料理とは異なり、毎食でもOK。さて今回の現場は、中国全土から集まる音楽家の卵、しかもエリート中のエリートが集う中央音楽院。ここまで来ると清清しい。学生の作曲作品を見ると、日本の音大生の軽く10倍くらいは勉強しているようだった。ネット規制で得られない情報が多いことが気の毒だが、それが原因か、学生たちはよく質問する。中国人なら授業料は安い、しかし競争は激しい。作曲科だけで150名余りの在籍者だ。教授たちには留学経験者も多く、今の40代前半世代以降になると博士号取得者だけが専攻レッスンを担当出来る。みな猛烈に勉強し働く。この「疲れを知らない感じ」が、日本には余りない。特に40代でお気楽&怠慢になる音楽家を日本では多く見てきたのだが、北京へ来て更にその感が強まっている(写真は音楽院の建物の一部)。続く。
20. November 2018
幼年の頃から毎年夏に滞在した父方の故郷、高野山。有名なお寺や大学があってね、と幼少時から聞いていましたが、私の興味はもっぱら、お土産屋さんにある絵本。地獄はこんなところ!とか、曼荼羅の意味等が図解してあって、それら衝撃的な絵は今でも忘れません。私は虫が苦手で、山道を歩くのは楽しくも恐怖でいっぱい。鋭く長い山草ではよく手を切り、自家畑へ行く道いっぱいに黒とオレンジの派手なゲジゲジがいて、その名も「しなんたろう」(怖)父の実家の大きくて元気すぎる3匹の犬が怖くて怖くて今も犬が苦手。そんなヴィヴィッドな思い出に満ちた高野山ですが、近年は「日本の地域で育まれた音文化の継承」を調査研究している関係で高野山へ初めて調査目的で訪れたのが昨年夏。ああ、もっと早く来ていたら、調査歴30年は軽く越えたのに?と後悔しています。親戚は生まれた時から高野山におり、何かと協力してくれて有難い限り。2010年の大晦日、宿坊に初めて泊まりました。雪と金剛峯寺と年末行事の松明。静謐さと荘厳さは、鈴木忠志さんの舞台照明を思い出させました。来年、利賀で発表する金森穣さんとの新作の音楽に、何かが影響しそうな予感です。

28. October 2018
公の場で何かを発表する時は、同時に反響も受け止める覚悟をしている。10月18日から28日まで開催している野外劇「三文オペラ」@池袋西口公園、連日大入りで日毎に満々員に。昨今は、熱く語り合うものではないらしい感想や批判は、SNSで発信する時代。当然ながら業界人は最も厳しい。まあ、業界人を唸らせてこそなんぼ、なのかも知れないが、生産性のない批判文章というのは滲み出るもので、私のような演劇素人だってそれくらいは感じる。テレビや映画など、録画編集が可能で音声も完璧に近く完成できる媒体とは、全く異なる舞台=生ものに対しての批評は、相当大変なことだろうに。だってその瞬間しか体験できないのだから。録音録画なら何度も聴いて検証さえもできるけれど。 われわれ表現者は、何を言われようとも「やる」。好きだから、楽しいから、何か説明できないエネルギーに自分が突き動かされるから等々、人によって違うが、好きなことがある → エネルギーが体の内部から沸々と湧き上がるもの なのだと、今回のプロジェクトで改めて感じた。演出、脚本、演技、演奏、音声、照明、、吟味された批評を聞きたい。
18. August 2018
  あの日、約350人の聴衆(人口は約6830)の最年少は1歳未満の赤ちゃん。出演者の世代は20代から凡そ80代まで。伝承の島唄や喜界産の世界初演曲が並びました。多彩な音楽表現の中で、島唄はしっかりと息づいていました。トゥシューズで踊るバレエを初めて見た人、KODAIさんのファンで新曲を聴きにきたら、もう何十年も歌われていない喜界伝承の島唄を聴くことになった人、遠藤飛鳥さんを応援にきたら、西商店(西徹彰)の奄美チンダラ節でつい踊ってしまった人、クラシックを聴きにきたのに、不思議な響きや見たことのないダンスに遭遇してしまった人、、様々な出会いと驚きに満ちた時間だったようです。中でも歴史的な出来事は恐らく、これまで殆ど交流しなかった、喜界の最も古い島唄の伝承者と、奄美島唄界で群を抜いて著名な民謡教室に学んだ若手継承者たちが共演したこと。世代を越え、方法も様式も越え、ただただ、この島で、島唄を継承していきたい、、唄を愛する深い心が交信した舞台。  音楽の宿る場所、喜界島では「島唄は先祖から預かった宝」と表現します。 この宝は、口承で何百年もの時を生きています。

17. August 2018
(前回からの続きです) 6月30日に中間発表的「対談」と「世界初演演奏会」を、喜界島、奄美大島、鹿児島、東京の混合メンバーによる実行委員会で開催。数年前に鹿児島県庁生活局が制作した「歌い継ぐ奄美の島唄」(ひときわぶ厚い「喜界島編」)。その当時の局長が偶然にも私たちの実行委員会顧問です。  顧問の思い出話のひとつが 「喜界島編が最も大変だった。集落で伝承されている歌は、同じ曲名でも集落ごとに違っているのが当然だから、全て残す!ということで目次が大量に、、」。  言語の保存について考えました。   '09年にユネスコ指定を受けた消滅危機言語の喜界語。集落ごとの違い。どの集落の言葉を喜界語として残すのか。誰が、どういう理由で決めるのか。「水が違えば言葉も変わる」と喜界伝承の島唄に歌われています。どんなにぶ厚い資料になっても、ありのまま、多様性をそのまま残すことが、この島に相応しいような気がします。その多様性の共存が、強いバランスの地盤を作るような気がしています。Made in 喜界島の多彩多様な音楽を体感した「あの日」だけで、5ミリ隆起したのでは!と感じるほどの人々の熱い反応。(続く)
17. August 2018
素直さとOpen-minded、音楽が宿り、音楽が生まれ、受け入れられる場所、喜界島。 「島唄」ではなく、「島唄の継承」について調査研究を始めて約3年。喜界島では約1年半が経ちました。 同業者の多くから「貴方がなぜ民謡の研究をやっているの!?」と言われて来ました。筆者の興味は、日本特有の表現の源泉。そして日本の地域で育まれてきた音の「継承の未来」。去る6月30日の中間発表的演奏会の直後、島のキーパーソンに「これからも、僕たちは一生つきあいますよ」と励まして頂いた時のことを忘れません。 もう50年前後も歌われていない喜界島伝承の歌が複数あります。先日は、その中から「朝潮満ちゃ上り」を、大御所の唄者さんに紹介して頂きました。「奄美民謡大賞」(大規模なコンクール)では決して歌われない曲です。筆者は、三線の前弾き部分も、歌の部分も(主観ですが)名曲と感じます。毎年1曲でもいい、人から人へと継承していけば、永く残って行くのではとの期待が膨らみます。 この曲に出会うきっかけは、鹿児島県県民生活局で製作した音源付資料「歌い継ぐ奄美の島唄 喜界島編」。当時の生活局長は我々実行委員会の顧問です。

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