20. November 2018
幼年の頃から毎年夏に滞在した父方の故郷、高野山。有名なお寺や大学があってね、と幼少時から聞いていましたが、私の興味はもっぱら、お土産屋さんにある絵本。地獄はこんなところ!とか、曼荼羅の意味等が図解してあって、それら衝撃的な絵は今でも忘れません。私は虫が苦手で、山道を歩くのは楽しくも恐怖でいっぱい。鋭く長い山草ではよく手を切り、自家畑へ行く道いっぱいに黒とオレンジの派手なゲジゲジがいて、その名も「しなんたろう」(怖)父の実家の大きくて元気すぎる3匹の犬が怖くて怖くて今も犬が苦手。そんなヴィヴィッドな思い出に満ちた高野山ですが、近年は「日本の地域で育まれた音文化の継承」を調査研究している関係で高野山へ初めて調査目的で訪れたのが昨年夏。ああ、もっと早く来ていたら、調査歴30年は軽く越えたのに?と後悔しています。親戚は生まれた時から高野山におり、何かと協力してくれて有難い限り。2010年の大晦日、宿坊に初めて泊まりました。雪と金剛峯寺と年末行事の松明。静謐さと荘厳さは、鈴木忠志さんの舞台照明を思い出させました。来年、利賀で発表する金森穣さんとの新作の音楽に、何かが影響しそうな予感です。
28. October 2018
公の場で何かを発表する時は、同時に反響も受け止める覚悟をしている。10月18日から28日まで開催している野外劇「三文オペラ」@池袋西口公園、連日大入りで日毎に満々員に。昨今は、熱く語り合うものではないらしい感想や批判は、SNSで発信する時代。当然ながら業界人は最も厳しい。まあ、業界人を唸らせてこそなんぼ、なのかも知れないが、生産性のない批判文章というのは滲み出るもので、私のような演劇素人だってそれくらいは感じる。テレビや映画など、録画編集が可能で音声も完璧に近く完成できる媒体とは、全く異なる舞台=生ものに対しての批評は、相当大変なことだろうに。だってその瞬間しか体験できないのだから。録音録画なら何度も聴いて検証さえもできるけれど。 われわれ表現者は、何を言われようとも「やる」。好きだから、楽しいから、何か説明できないエネルギーに自分が突き動かされるから等々、人によって違うが、好きなことがある → エネルギーが体の内部から沸々と湧き上がるもの なのだと、今回のプロジェクトで改めて感じた。演出、脚本、演技、演奏、音声、照明、、吟味された批評を聞きたい。

18. August 2018
  あの日、約350人の聴衆(人口は約6830)の最年少は1歳未満の赤ちゃん。出演者の世代は20代から凡そ80代まで。伝承の島唄や喜界産の世界初演曲が並びました。多彩な音楽表現の中で、島唄はしっかりと息づいていました。トゥシューズで踊るバレエを初めて見た人、KODAIさんのファンで新曲を聴きにきたら、もう何十年も歌われていない喜界伝承の島唄を聴くことになった人、遠藤飛鳥さんを応援にきたら、西商店(西徹彰)の奄美チンダラ節でつい踊ってしまった人、クラシックを聴きにきたのに、不思議な響きや見たことのないダンスに遭遇してしまった人、、様々な出会いと驚きに満ちた時間だったようです。中でも歴史的な出来事は恐らく、これまで殆ど交流しなかった、喜界の最も古い島唄の伝承者と、奄美島唄界で群を抜いて著名な民謡教室に学んだ若手継承者たちが共演したこと。世代を越え、方法も様式も越え、ただただ、この島で、島唄を継承していきたい、、唄を愛する深い心が交信した舞台。  音楽の宿る場所、喜界島では「島唄は先祖から預かった宝」と表現します。 この宝は、口承で何百年もの時を生きています。
17. August 2018
(前回からの続きです) 6月30日に中間発表的「対談」と「世界初演演奏会」を、喜界島、奄美大島、鹿児島、東京の混合メンバーによる実行委員会で開催。数年前に鹿児島県庁生活局が制作した「歌い継ぐ奄美の島唄」(ひときわぶ厚い「喜界島編」)。その当時の局長が偶然にも私たちの実行委員会顧問です。  顧問の思い出話のひとつが 「喜界島編が最も大変だった。集落で伝承されている歌は、同じ曲名でも集落ごとに違っているのが当然だから、全て残す!ということで目次が大量に、、」。  言語の保存について考えました。   '09年にユネスコ指定を受けた消滅危機言語の喜界語。集落ごとの違い。どの集落の言葉を喜界語として残すのか。誰が、どういう理由で決めるのか。「水が違えば言葉も変わる」と喜界伝承の島唄に歌われています。どんなにぶ厚い資料になっても、ありのまま、多様性をそのまま残すことが、この島に相応しいような気がします。その多様性の共存が、強いバランスの地盤を作るような気がしています。Made in 喜界島の多彩多様な音楽を体感した「あの日」だけで、5ミリ隆起したのでは!と感じるほどの人々の熱い反応。(続く)

17. August 2018
素直さとOpen-minded、音楽が宿り、音楽が生まれ、受け入れられる場所、喜界島。 「島唄」ではなく、「島唄の継承」について調査研究を始めて約3年。喜界島では約1年半が経ちました。 同業者の多くから「貴方がなぜ民謡の研究をやっているの!?」と言われて来ました。筆者の興味は、日本特有の表現の源泉。そして日本の地域で育まれてきた音の「継承の未来」。去る6月30日の中間発表的演奏会の直後、島のキーパーソンに「これからも、僕たちは一生つきあいますよ」と励まして頂いた時のことを忘れません。 もう50年前後も歌われていない喜界島伝承の歌が複数あります。先日は、その中から「朝潮満ちゃ上り」を、大御所の唄者さんに紹介して頂きました。「奄美民謡大賞」(大規模なコンクール)では決して歌われない曲です。筆者は、三線の前弾き部分も、歌の部分も(主観ですが)名曲と感じます。毎年1曲でもいい、人から人へと継承していけば、永く残って行くのではとの期待が膨らみます。 この曲に出会うきっかけは、鹿児島県県民生活局で製作した音源付資料「歌い継ぐ奄美の島唄 喜界島編」。当時の生活局長は我々実行委員会の顧問です。
05. May 2018
6月30日、梅雨明け(予定の)喜界島で、喜界島の音楽文化を、特に「創造」というテーマで特集することになった。未だ、音楽文化の全貌が明らかになっていないからという理由で、奄美島唄研究の大御所、小川学夫先生(鹿児島純心女子短大名誉教授)から強く勧められたという理由だけで飛び込んだ喜界島。あれから約1年3ヶ月の間に7回現地調査を行った。複数の集落で音楽と踊りが溢れる日常があり、創造的なミュージシャンたちに毎晩出会える島唯一のライヴハウスでは、夜中2時まで食事ができる。彼らの多くは昼間、それぞれの職を持っていて夕方以降に調査するので、私たち研究チームの夜は長い(写真は喜界の歌姫と言われている川畑さおり氏。6/30に新曲初演して頂く。昼は役場職員として業務に励む)。  去る1月末から2週間、初めてひとりで滞在した。免許を持っていないので自転車を利用したが、暴風雨の季節で、この島が平たいことを全身で感じた日々だった。しかし疲れない。生活圏が、自転車で5分くらいの移動距離で済む。だから19時間x15日間活動し続けたのに元気に過ごせたのだろう。 6/30は、喜界島発祥の多彩な音楽を紹介する(続く)

21. February 2018
種子島、特に唄の名人によって伝承されているのが南種子町との話を伺ったので、ロケット発射場まで目と鼻の先の広田遺跡ミュージアムで、南種子町の名人の方々に初面会、厳しい継承の現状についてお話を伺い、その後に80代と60代の名人の方に歌い踊って頂いた。お酒なしで歌うの?と真顔で質問され、今度は懇親会で、自然な形で飲んで歌って踊りましょう、とお誘い頂いた。鹿児島伝統の薩摩琵琶との共通点は「唄は先祖からの宝。金にはしない」という点だった。 私は種子島の数ヶ月後に、鹿児島県最南西の与論島に飛び込み調査に行くことになるのだが、種子島と与論島が、もはや外国なのではないかと感じるほど違うことを、この時は予想さえしなかった。与論から奄美大島、そして現在までの1年以上、連続で調査に伺っている喜界島へと繋がっていく。  鹿児島県は一大海洋国である。その音文化をじっくりと観察すると、薩摩琵琶の時も、今回の島唄・三線も、実に多くのことを知らせてくれる。政治、文学、思想、哲学、言語、自然、生活、、などを音という世界のみで表象している。地域の音文化を学ぶことをぜひ義務教育に加えてほしい。それについてはまた次回に。
30. November 2017
種子島から始まった島唄の調査は、私を奄美群島の最南端与論島、そして沖縄本島と導き、今年からは奄美大島と喜界島での集中的な調査へと繋がっている。実は2015年の「鹿児島伝統の薩摩琵琶」研究がきっかけだった。そもそも、日本独特の音表象の源泉に興味があって、様々な本を読んだのだが今一つピンと来なかった。そんな時に友人が鹿児島赴任となり、たまたまその友人を訪ねて遊びに行った最初の夜、薩摩琵琶がぶらさがっている店で食事をした、それが2012年の新年のこと。その直後から、鹿児島伝統(薩摩武士)の「薩摩琵琶」を研究することに。更に発展し、130年ぶりだという鹿児島伝統の薩摩琵琶への新作を作曲。「鹿児島の民衆の楽器三線も調査すべきだろう」と考え、ご縁があり種子島へ(写真は種子島到着時)。だが無知な私は種子島には三線は無い、ということを知らずに行ったのだった・・・。 今年は喜界島で計5回の調査を行った。この島のマンパワーは強く潔く明るい。キューバにずっと憧れて、行きたかったが、喜界島の人々と音楽に触れてから、ここももしかして音楽の島なのではないか?という思いが強まっている。 いずれまとめてご紹介したい。